子どもと親のためのコミュニティ広場

辻  千鳥
夕波(ゆうなみ) 千鳥(ちどり)
辻  千鳥(30) 神奈川県平塚市

 近江8おうみ)() 夕波千鳥 () が鳴けば
     心もしのに いにしえ思ほゆ
 万葉集の中にある柿本人麻呂の短歌である。人麻呂が好きだった父が、姉の私に「千鳥」、 弟に「夕波」と名づけた。「千鳥」や「夕波」だけでも充分、個性的なのに二人そろえば天 下無敵だ。よく人に、漫才コンビみたいだとか、文学的なお名前ですね、と言われた。名 字が「小川」だったので、よけいにピタリとはまり、父はご満悦だった。が、当人たちは 必ず芸名みたいだと言われるのと、名前負けしてしまうのとで、どこかしっくり来なかっ た。しかし、年をとると自分の名前に愛着がわいてくるのはなぜだろうか。
 五歳年下の弟は、小さい時から歌がうまかった。将来歌手になれたらいいね、芸名はい らないね、などとよく夢を語り合ったものだ。が、弟は夢を捨て、企業戦士となった。
 その弟も今はこの世にいない。八年前に突然他界した。クモ膜下出血だった。阪神大震 災の後、ろくに休みもとれず働きづめで、身体が叫び声をあげていた。近くにいたら、も っと話を聞いてやっていたら……。後悔は今もつきない。
 「夕照(ゆうしょう)」――弟の戒名である。 夕陽がまぶしい神戸の小高い丘に弟は眠っている。沈んでもまわりを暖かく照らす 名残(なごり)の陽のような弟。夕波が逝き、 千鳥だけになってしまった。 名づけ親の父は弟亡き後、すっかり年をとってしまった。
 「お前は生まれて来てよかったと思うか」
 「その名前が気に入っているか」
 酔うと時々こんなことを私に聞いてくる。もちろん、よかったと思うよ、気に入ってる よと答える。人麻呂の歌がいっそう身にしみる秋、夕波にそっとささやく。あの世とこの 世の隔てはあるけれど、私たちは今でも名コンビだよね。


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